外国人の見たニッポンの風俗(1)
外国人の見たニッポンの風俗(1)
私たちが日常ごく普通にやっていることについては、当たり前すぎて珍しくもなんともないために、その詳細が記録されることがなく、歴史的な盲点となってしまうことが多々あります。例えば、現代の子供たちに「はたき」とか「こより」を見せて、その名称・用法などを聞いても、答えは出にくいでしょう。戦前は家庭で手作りされた日用品でしたから、昭和一ケタ生まれの私には「はたき」の音や、不出来な「こより」など、懐かしい思い出があって、後世に語り伝えたくなります。
私たちには当たり前でも、風俗習慣の異なる外国人から見て、とても奇異な事例となれば、外国側で記録されることになるでしょう。それが時を経て日本に伝わり、歴史的盲点を解明することが期待されるとともに、両国の文化の違いを知ることができます。
本稿では、日本を実際に見た外国人の多くの記録の中から、日本人の衣服や髪型などを主とする、風俗に関する記述を選び出して読んでみることとします。
外国人による日本に関する記録で、最も古いものには、『魏志倭人伝』(三世紀)、『随所倭国伝』(六世紀)、マルコ・ポーロの『東方見聞録』(十三世紀)などがあります。これらの記事で風俗に関するものは、貫頭衣(穴をあけた布を頭からかぶって腰紐でしばる形)を記した魏志倭人伝や、みずら(髪を両耳の上に垂れる髪型)を記した隋書倭国伝などが見られます。しかしこれらの本は、実際に見聞した人がみずから書いたものとは認め難いので、ここでは取り上げません。
世界史で大航海時代と呼ばれる、地球規模の貿易や布教活動が盛んになった十五世紀(室町時代)になってから、日本にも宣教師が渡来しました。スペイン人のフランシスコ・ザビエルです。
ザビエルが日本滞在の間、上司などに宛てた報告書『イエズス会士日本通信』が翻訳出版されていますが、この中には、日本の風俗について皆さんに紹介するような面白い話は出てきません。しかし、ザビエルに続いて1563年に来日した同じイエズス会のポルトガル人ルイス・フロイスは、日本と日本人を観察して、貴重な記録『日本覚書』を残しています。
フロイスは、三十数年間滞在して長崎で没しますが、この間に得た日本の風俗・習慣などをまとめた『日本覚書』は611カ条から成り、各カ条ごとにヨーロッパと対比して、「ヨーロッパではこうするが、日本ではこうだ」の形式で、興味深い事例が列挙されています。本稿では髪型、服飾などの項目を抜粋しましたが、詳しくは中公新書『フロイスの日本覚書』でお確かめください。
十六世紀末、秀吉によるキリシタン弾圧以降外国人の渡来は中断します。
十九世紀になって、欧米の東洋進出にともない、日本に黒船が姿を見せてから日本と外国との交渉が始まり、1858年(安政5年)幕府はアメリカ・イギリス・ロシア・オランダ・フランスの五カ国と条約を結んで開国となりました。
これにより、各国の外交官や商社員等の駐在および国内旅行・指定地での居留や自由貿易などの活動が行われ、多くの外国人が来日します。また、明治新政府は近代国家建設のため、外人技師や教師を招聘しました。
こうして来日した人たちは、それぞれ日本での見聞を書き残しました。フロイス以降の多くの日本見聞記録の中から、容姿(髪型や化粧)、服飾、生活などの項目を立てて、関連する記事を紹介することとします。
初めて見る日本の風俗、たとえば衣服や髪型などを、外国人の目で他の人に説明するとどうなるか、さまざまな受けとめ方、さまざまな表現が行われていることを確かめてください。
戦前の出版物等、読みにくい文字については、常用漢字・現代かなづかいに改め、適宜ふりがなを付してあります。
第一章 髪型(男性)
日本に上陸した欧米人が最初に接するのは、役人である武士と、水夫や荷運び等の人足たちです。日本人は、身分により服装に差があるけれども、髪型は身分に関係なく一様に「ちょん髷(まげ)」であることに関心を寄せ、月代(さかやき)を剃り上げ、または毛抜きで抜き取ることを奇習と観察しています。日本では貴族の冠り物や武士の兜(かぶと)着用に応じて広まった風習のようですが、明治4年(1871)に断髪令が出て姿を消し、過去の遺物となりました。
フロイス著『日本覚書』より(末尾の数字は原本の項目番号を示す)
〇 ヨーロッパ人があご髭(ひげ)で表す名誉と優美さとを、日本人は後頭に結びつけている小さな髪(ちょん髷)で表す(6)
〇 われらにおいては、男たちはいつも髪を刈っているが、禿頭(はげあたま)にされるのは侮辱とみなす。日本人は、毛抜きでもってー本の毛も残らぬよう自分自身を禿頭にしてしまう。それには苦痛と涙とがつきものである。(7)
〇 われらにおいては、人は苦痛から免れるために頭髪を刈ったり剃ったりする。日本人は、悲しみ、または喪のため、もしくは主人の恩寵を失ったために剃髪する。(14)
〇 われらにおいては、どこかの修道院に入ろうとするときにあご髭を剃る。日本人は、世俗のことを捨てたしるしとして後頭部の僅かな髪を切る。(13)
〇 頭は顔と同じようにすっかり剃ってあるが、後頭部の毛髪だけを上に取り上げて、切り取ったような細く短い髷に結い上げて、脳天にしっかりと横たえてある。こんな珍妙醜怪な髪型に一体どれだけ気を使っていることだろう!
ホジソン著・多田實訳『ホジソン長崎函館滞在記』より
〇 髪の毛はあまり奇妙に結っているものですから、それをなんと表現してよいかちょっと手間どらざるを得ません。頭に何かかぶっているものは一人もおりません。
E.スエンソン著・長島要一訳『江戸幕末滞在記』106頁より
〇 大君からごく普通の日雇い労働者まで、日本人はふたつの点でみな共通点を持っている。ひとつは髪型、もうひとつは履物である。顔の全体と頭の中央部をきれいに剃り、両側の髪は後ろに梳(す)かれて後頭部の髪と一緒に束ねられる。それを上に返して丸めて、縒(より)糸(いと)で結んだ後、その先を、頭のてっぺんの剃り上げた部分に、四、五インチほどのせるのである。一見単純そうな髪型であるが、整えるに時間もかかるし手入れも面倒である。ひとりではできないので理髪師の手を借りなければならない。というわけで、理髪師は、家から家へ、一日中歩きまわって、お客の髪を整えている。ていねいに剃り上げ、冷たい水できれいにしてから髪油をすり込んで髪を固める。そして細々した道具をいくつも使いながら実に器用に髪をかき上げて丁髷(ちょんまげ)を作り、黒檀のようにつやつや光沢
出るまでなでまわしてから切りそろえる。裕福な日本人は毎日髪の手入れをしてもらい、その間なんともいえない良い気分を味わうのである。身支度に時間を費やしていられない貧しい連中は、丁髷を直すのは週に一度ぐらいで満足せざるを得ない。こういう髪型をすべきことは法に定めてあって、丸坊主の医者と僧侶、家族の死を弔っている印に髪を伸ばしている人は別として、例外はめったにない。
調髪師・髪結いについての記述もあります。
イザベラ・バード著・高梨健吉訳『日本奥地紀行』より
〇 下層階級の男性の多くは、非常に醜いやり方で髪を結う。頭の前部と上部を剃り、後ろと両側から長い髪を引き上げて結ぶ。油をつけて結び直し、短く切り、固い髷を前につき出し、もとどりの後部に沿って前方にまげてある。このちょん髷は短い粘土パイプによく似た形をしている。こんなわけで、髪を剃ったり結うことは、職業的な理髪師の熟練を必要する。
エメエ・アンベール著・茂盛唯士訳『絵で見る幕末日本』より
〇 日本橋にはいると、われわれの前に床屋がある。その中で、ありふれた服装している客が二、三人、朝の化粧をしている。床几(しょうぎ)に腰を下ろした彼らは、左手で大事そうに盆を支え、剃刀(かみそり)や鋏(はさみ)が動くたびに、切られた髪がその上に落ちている。一方、動作に邪魔になるすべてのものを脱ぎ棄てた調髪師は、お客の頭の右や左に、体をかがめて、あたかも古代の彫刻家が女神の像を刻むように、あるいは手を、あるいは道具を動かしている。
出典
えどゆたか
吉田 豊
江戸~明治期の文芸、古文書の解読・研究、草双紙の収集・研究
著作
『江戸かな古文書入門』1995年(柏書房)
チャレンジ江戸の古文書 シリーズ全3冊
『街なか場末の大事件』1999年(柏書房)
『犬鷹大切物語』1999年(柏書房)
『大奥激震録』2000年(柏書房)
『江戸服飾史談—大槻如電講義録』2001年(芙蓉書房出版)
『江戸のマスコミ「かわら版」』2003年(光文社新書)
『古文書をはじめる前の準備講座』2008年(柏書房)
共著
『古文書で読み解く忠臣蔵』2001年 吉田豊・佐藤孔亮 著 (柏書房)
『春画で学ぶ江戸かな入門』2017年 車浮代・吉田豊 (幻冬舎)
その他
『外国人の見た日本の風俗』
2007~2009年(社)理美容教育センター研修紀要に連載 (全9回)
※当ブログに順次掲載予定
『柳沢つげの手紙』
明治維新政府に出仕した元武士の妻が夫に送った47通の手紙
西東京市図書館/西東京市デジタルアーカイブ(手紙と解説を収蔵)
https://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11F0/WJJS07U/1322915100/1322915100200060/mp600010